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いんふる

子育てというものをしていて、宿命なのが風邪、発熱、その他感染症、とは相場が決まっている。そして、この2018年が明けてからというもの、まんまとずっと、そんな感じのあれやこれやとの戦いである。

それは誰に不平を言ったこととて詮無きことであるし、言うつもりも相手もない。新生児に感染拡大しないことに深く感謝しつつ、現実的に対処できるあれやこれやには、ただ現実的に対処をしていく、それだけのことと言えば、それだけのことなのである。

それにしても、今回の出産を経て得ることとなった教訓について思いを馳せることが多い。「楽観もせず悲観もしない、ただゴールと現在の距離だけを正確に測り続ける」という境地。一喜一憂悲憤慷慨していたら、とてもじゃないけど、持たない。

それだけのことなのにも関わらず、こうして一本記事を書こうとしてしまうのは、きっと何か心の奥の方に、何かがあるのかもしれない。いや、ないのかもしれない。自宅作業のふとしたスキマ時間に、少し何かを書きたくなっただけで、たまたま書くことがそれしかなかったということなのかもしれない。

それにしても、である。

我ながら、切迫早産からこの方、生活力が向上の一途をたどってめざましい。あご、あし、まくらではないが、保育園の送り迎えに食事の準備、片付けにゴミ出し、買い物、風呂、洗濯、哺乳瓶の洗浄やら消毒やら、たいがいのことはやりくりできるようになった自分がいる。それぞれのタスクについて、完成度には少し難があるし、掃除だなんだと手がまわらないものもある。最低限度の生活の維持というところではぎりぎり及第、というところか。臥せっている妻と新生児を抱えている状況においてということを考慮して、自分自身に対しては「可」の成績をつけても、バチは当たらないだろう。

有り難いのは夜の寝かしつけで、11時ぐらいには3ヶ月児がころんと眠りについてくれ、翌日7時まで快眠してくれる。夜中にふと隣で起きてもぞもぞしている気配は、時々ある。「ないてもわめいてもパパは起きない」ということを学習し、諦めただけなのかもしれない。

一人目の子育てが少し落ち着いて、久しぶりに思うのは、当事者としてリアルタイムで現場にいると、やはり同じ境遇の人と情報交換したり、意見交換したり、なにかを共有したくなる。やはり、なにかしら特別なことをやっているという自意識が生まれるのであろう。

社会人になって12年。一人目の子供が生まれて6年。考えてみれば今年は戌年で、歳男である。節目感の強い、平成30年である。最近、中学や高校・大学生の頃に好きだったバンドやなんかの曲を聞く事が多い。彼らは彼らで、この空白の12年間を更新し続けてきたわけで、不思議な出会いの感覚がある。藤井四段(いやもう五段か)はスピッツとスガシカオが好きだそうだ。自分の世代からすると、ゴダイゴとかかぐや姫とか?ちょっと感覚がよくわからない。J-popの世界は特に、インターネット登場以降、時代が止まっているような感じがする。古いものが古くならない。新しいものも生まれない。

リモートワークといえば、リモートで会社にいるメンバーとやりとりしていると、若い人たちがすくすくと成長していることを感じる。マネジメントとは、何もしないことなのだ、と、思う。最近はもうほんと、何もしない。思った以上に成長したり、思ったようには成長しなかったり。それは読みの甘さでもあるが、そもそも人の変化は読もうとしたって土台無理な話なのだ。

何もしないということは、難しい。何かあったら、やりたくなる。そこをこらえる。我慢大会である。いや違う。他にやることが増えて、やれなくなって、やれなくなったほうが物事がうまく行った、というのがその順番なのであった。

しかし、その会社の若い人たちの成長と、乳児が夜中起きないことが、なんとはなしに共通している。なにもしない、ということだ。泣いても喚いてもなにもしない。それが結果的に、物事をうまくいかせる。

いや、本当になにもしないわけではないんだ。

人生、自分以外に自分を助けてくれる人はいない、それは大事な学びだ。しかしそれは、ネグレクトであってはならない。泣いても喚いても助けてくれないが、本当に必要なときには手を差し伸べる、そんな関係性がベースになければ、それはもはや他人でしかないのだ。そこに「いる」ことは大事だ。「手を差し伸べる」とは何かを「する」とは限らない。何かを「しない」であることもあるし、発する言葉を「聞く」、発する感情を、視線を、「受け止める」ということであることもある。

何かを発するきっかけを生む。それは気配のようなものだ。

その気配を生む、身体性のようなもの、それが大事なのではないか。

話は変わって、最近、経営者には野蛮さが必要だ、ということを痛感する。周りに気を使って清廉潔白、身ぎれいにしようとする経営者では、勢いやスケールは生まれにくい。勢いやスケールが必ずしも大事なわけではないけれど、野蛮でない自分を知るのであれば、勢いやスケールを求めるのは矛盾である、そんな自己認識もまた必要なのではないか。

いや違う。野蛮人でない人間に、ベンチャー企業は似合わない。ただそれだけだ。

企業を上場させて一獲千金、という誰かから聞いた成功モデルに、無意味にとらわれていたのではないか、とか、親から承認を得られなかったと感じてきたことが、自分の内面奥深くに食い込んでいたのではないかとか、2018年は自分の内面を掘り、どうやら鉱床にたどりついたような感覚がある。これもまた「節目」のなせるわざなのかもしれない。

第二子はちょうど三ヶ月を迎えた。早い。とてつもなく早い。昨日生まれたばかりじゃなかったのか、と思う。どんどん大きくなる。可愛さを堪能する余裕も暇もなく。性格や個性のようなものの片鱗が見える気がするタイミングがある。きっと、この子は、素直で、心優しくて、強いんだろうな、と思う。それにしても、もう三ヶ月である。最近は一週間が昔の一日ぐらいの感じがする。どんどん年をとる。時代を更新しないミュージックシーン。羽生が七冠を取ってから、永世七冠を取るまでの時間。藤井が生まれてから五段に駆け上がる時間。ドッグイヤーどころかラットイヤーのインターネット。すくすく成長する若者。あっという間に大きくなる赤子。第一子が最近見せる、なにやら複雑そうな内面。それぞれの時間。

そんなことを書いている横で、長女が「ダッコガ、ヒツヨウデス」「イマスグ、ダッコシナイト、コワレテ、シマイマス」「アト、ジュウビョウ、デス」とロボット語で話しかけてくる。面白いやつだ。でも最近は、ちょっと構われるのが疲れる。だって、二人目が生まれたんだもん。

ごめんね、と思う。

同時に、そんな自分のせいで彼女がグレたりなんかしたらどうしようか、とか、怖くなる。 きっと、彼女が聞きたい言葉は、断じて、ごめんね、ではないはずで、謝ったり心配する暇があったら黙って抱っこしろよ、とでも思うんだろうな。おれだったら確実にそう思う。でもまぁ普通に冷静に考えて、そこまでの因果関係があるわけはない。しかし、通奏低音のような何かが心と心を関連付け、ときに呪いと呼ばれるような因果を形成するというのもまた、否定はできない。

ごめんね、パパは本当は、謝ったり心配したり、駄文を書くのが好きなんだ。

抱っこは、もう、そろそろ、重いんだ。

(そんなふうに感じる自分の心が、寂しい。ほんとかよ、と思う。怖いとも思う。だがしかし、だがしかし、だがしかし・・・の、以下、無限ループ)

おそらくこのループは、人間の大脳新皮質による「因果」という思考作用が引き起こすBUGのようなものだ。しかしBUGに対して「BUGですね」と発話することに、いかほどの意味があるのか。FIXできないBUGは「仕様です」と強弁する、そんなことがあってもいいものか。

この文章には、特に結論もないし、主張もない、構成すらもありはしない。

まぁ、いいではないか、たまにはそういうことを書いたって。

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