グルーヴを頼りとして、オールを漕ぎ、波を越えてゆけ
正直さと真実との関係は船のへさきと船尾の関係に似ている。
まず最初に正直さが現れ、最後には真実が現れる。
その時間的な差異は船の規模に正比例する。
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村上春樹のとある小説のなかで語られる言葉で、これが私はめっぽう好きなのである。
まず、事実があらわれ、真実はその後に続く。
事実と事実の間の関係性をつなぐのは、「意味」あるいはそれを生み出すための視点、パースペクティブといいかえるべきか、つまり、事実が事実として発生している渦中においては、その全貌を捉えるのは不可能なことなのである。
何が言いたいのかというと、夏の一大イベントにむけて、少しずつ船が動き始めていることを実感しつつある、ということだ。
音が増え、尺が伸び、箱はより大きく。
はっきりいって、春先に企画が動き始めた頃からずっと、あまりに先が見えなくて、不安に不安を重ねていたのだが、ようやくほぼ全メンバーがそろって音をだすことができて、ちょっとホッとしたのである。
チューニングをあわせる。
リズムをあわせる。
音が重なって、ハーモニーが生まれる。
音楽を演奏する醍醐味とは、ただ一点、ここだけにある。
ああだこうだと段取りしてじたばたとのたうち回る、プロデューサー的行為は、あらゆるプロジェクトにおいて不可避なものではあるが、公演の本質とは、その対極にある、グルーヴにこそ宿るものである。
なんのことはない、まず音を出す、そこから始めればよかったのだ、と、いつも(結果論的に)思う。もちろん、野放図にただ音を出すだけでは、きっと収拾がつかなくなってしまうのだろうけれど、なんやかんやとじたばたしたあとで、音出しをして、何かが見えると、本当にほっとするのである。
ともあれ、驚くべき話であるが、フルーツバスケットというプロジェクトは、まだまだその全貌を明らかにしていない。完全に拡大再生産サイクルの渦中である。それは誰かが仕掛けたり、制御したりという感じではなくて、この社会環境の求めに応じて、「召命」されているような感じがする。新規事業が拡大し始める感じとは、まさしくこういう感じである。もっと極限までオーバーに言ってしまえば、太古の海で初めての生命が誕生したときも、きっとそういうことだったのではないか、と思うことがある。
そう、最近考えているのはもっぱらそういうことであり、「生命とは何か?」という問いにはあんまり意味がないんじゃないかと思っていて、この宇宙に「存在」するものとは「拡大再生産するシステム」であって、生命とは、そのうちのひとつだ、という順番のほうが、よっぽど物事を理解しやすいように感じているのである。拡大再生産はそれ自体に意味や価値はない、あくまで純粋な現象であり、そこに意味や意義を見出すのは、人間という存在が進化の過程で獲得した大脳皮質が見せる幻影というか、もっと言ってしまえばBUGみたいなものですらあるのかもしれない、と思う。
それはそれとして、拡大再生産フェーズのことを、ときに人が「波がきている」と表現するのは面白いことだと思う。「渦」ではなく、「波」。どっちかというと、この「抗えない流れ」は「渦」って感じがする。「波に乗っている」ではなく「渦に飲み込まれる」。
随分話がとっちらかってしまった。
まぁ、世迷い言はさておき、いまはただ、舵を切り、オールを漕ぎ、次の港を目指す、それだけでなのである。